湖畔に咲くか、

ボートの中で爪を噛む。少年はオールなんてとうに破棄してしまった。

波に揺らぐ感覚は少年を絶対的に安寧させている。空と湖はどちらもたっぷりと星を散りばめていて、境目も見つからないほどに親密に溶け合っている。


少年は帰り方を忘れてしまっていたけれど、そんな事を考える余地も無いほど澄んだ夜で、少年はもうどこにも存在していない自分を静かに思った。

郷愁

白い煙を吐く。
僕は夜が寝静まるのを待ちながら、ベランダで船の数を数えている。灯篭のように流れて消えるそれを数えている。
遠くにサーカス小屋が見える。火の輪に使うオイルの匂いが風に乗ってベランダまで流れてくる。

僕は何も思わないふりをしながら、指を折る。もう帰れない場所があることを思い出さないように、遠くで揺れる船を数えている。

lolita

少女は目を擦りながらベッドサイドに手を伸ばし、煙草に火をつける。外はまだ暗く雨が降っている。

夢現の間で少女は煙草を吸い終え、キッチンに行くとコップ一杯の水を飲んで欠伸をする。蛍光灯が単調な光を垂れ流し、部屋は退屈そうに照らされている。鏡に映る自分の顔をぼんやりと眺める。
照らされた顔は、のっぺりと白く自分のものではないようで少女は思わず手を顔に当てる。

しかし鏡の中に手は現れない。向こう側の顔だけがじっとこちらを見ている。鏡の中で口がゆっくりと動く。


気づけば少女はまた布団の中で静かな寝息を立てている。

''telephone''

ドラマーが静かにカウントを始める。とてもゆっくりとしたビートで。

「1、2、3、…」

目を開く。タクシーのテイルランプが細く夜霧の中に吸い込まれていく。

海の匂いが微かにする。近くで海猫が鳴いている。

静かに佇む凪の中で僕はするべきことを思い描く。やがて強い風が吹いて、全て忘れてしまう。

冷えた手をポケットに入れて、退屈な足音を響かせながら、僕もまた夜霧の中に溶けていく。

バスルームから愛をこめて

シャワーから流れる甘美な憂鬱で君は白いシャツをびしょびしょに濡らしたまま、ただそこに溢れている音楽を歌っていた。

僕はそれを聞きながら、許される時間だけを集めて大事に瓶に閉じこめていた。使い方も分からないような時間ばかり集めて、そこに「安寧」という名前をつけて、それだけで満足をしていた。

無題

短いセックスの後で、彼女は小さな嗚咽を漏らして泣いていた。

僕は居心地が悪くて、ベッドに腰をかけ煙草をふかしていた。

西日が射す狭い僕の部屋はそこだけが世界から切り取られたように鮮やかな橙に染まっていた。

澱んだ空気の中で、ボブ・ディランの鳴らすアコースティックギターだけが正しい位置にあった。

夜明け前

まだ日が出るまで少しある。夜が明けるまでに僕は感じたことを全部鍋の中に溶かして、今から起きてくる君の為にポトフを作ろうと目論んでいる。

でも、その前に。そう、君の立てる寝息を聞きながら蝋燭の火で、もう何百回と読んだ短い物語を読もう。

季節が溶け出して形を変える前に、もう少しだけ君の事を小さく考えていよう。